お店出していると、必ずいらっしゃると思われる訪問者が。
そう、エホバの証人です。
私は興味本位に話を聞く方なので。。最初は洗脳とかあるのかしら?とドキドキする面もありましたが、まあそんなことはなく何の強要もなく・・・
伝導されてる方って偉いですね、本当に午前中だけ仕事をして午後は伝導の日々。聖書ってどうなの?と思ってたこともあり勉強させてもらいました。
その中で、早々にこれは無理!(><)となったのが ”あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい”という言葉。
「全部ですか?」「全ての人です」「・・・(ムムム)」
仮に表面は繕えても愛するまでいけます?少なからず自分に無理を強いる・・・でしょ?その無理は連鎖するでしょ・・・?
”隣人を自分自身のように愛する”・・・できるとすれば 隣人が自分自身でないと。。
あるんですね、そんな考え方・・・”自他一体”
他人は自分と連綿とつながっている自分の一部みたいな考え方なので、そこにはもう自我がない、つまり権利主張なんかない、自分自身としか思えない。。自ずと”隣人を自分自身のように”愛する としか成り得ない。。
ここでは”自我がない”ってのがポイントで、自分が無いから当然、相手も無い。つまり、自他一体。。
さて、ここで「あれれ?」となることがある。
神様を崇拝したとたんに、神を崇拝している自分の姿が浮き彫りになる。
つまり、自我が現れる。自我がある以上”隣人を自分自身のように愛する” ことは出来なくなる。隣人が他人になってしまいますから・・
聖書にある”偶像崇拝禁止”とはこういったところを危惧してるんでしょうか?神を自分の外に思った瞬間に自我に落ちる。でも「天にまします・・・」て祈ってませんかね・・
そういえばブッタって、自分の中に神を見出してたような・・・禅の”見性成仏”なんてのもそれに近いのかしら?
仏教や禅では「無」とか「空」、聖書では先程の「無私の愛」に根差した「神の国」が根幹にあるようなのですが、最近では量子物理学の世界でもこの世は「無」とか「空」であると言っているようです、面白いですね。
量子物理学では、この世にある原子で出来ているすべての物質(人間も含めて)が、実は存在しないと言っています。その根拠を簡単に言えば、原子を作っている素粒子っていうのは現れたり消えたり・・・を繰り返しているからだというのです。つまり、今ここにいる自分という存在は現れたり消えたりを繰り返している。ずっと在るように見えても・・・
平たく言えば、この世は自分の目に映る精巧なバーチャルリアリティの世界だと。やっと、ピルエットに近づいてきました!
仮にゲームセンターで精巧バーチャルリアリティゲームに向かったとします。
リアルなアクションが次々に起こってくる!でも自分はその場から動いていない。それがやりたいんです。
例えば駅に向かって歩くとします。自分が駅に近づいていくのではなくて駅が自分に近づいてくる。。。すると体の使い方が変わるんですね、不思議なんですが。
かかとを引っ掛けて歩く感じに似ているのですが、そんな使い方を考えるより景色を引き込んで歩くみたいに考えた方がしっくりくる。
歩き方の変化を簡単に言うと頭から突っ込まずに済む、少なからず前屈みじゃなくなります。。この変化は大きい!
そう考えれば、グリッサードも景色を左に蹴って流すので自分が右に行く。。ピルエットに至っては景色を左に回すので自分が右に回る。。出来るんでしょうか、コレ(; ・`д・´)
小さい頃にひたすらグルグルその場で回っていたら、自分は回っていないのに景色だけがグルグル回るような錯覚に落ちたのを思い出すのですが、あの感覚に近いのかな?
この意識だけでグリッサードの指先が伸びたり、ピルエットが少し回りやすくなったり・・となればいいのですが。